stumps

Gallery Stump Kamakura は、複数の美術家たちで運営しているアートスペースです。2006 年5 月に神奈川県鎌倉市にある一軒家を改築し、設立しました。スタート以来、展覧会活動などを通じて、世代や分野の垣根を超え、ものと人、人と人との交流の場として機能しています。2008年現在では運営するメンバーの数は10名に広がり、更に多様な方向を思索し邁進中です。

土曜日, 3月 31, 2007

ひとりとビデオ

今日はVOCA展に行って、そのあとトーキョーワンダーサイト本郷に行ってきました。
後者でやってた「Video Art From London」、おもしろかったです。ほぼひとりでゆっくり見れたからっていうのもありますが。
(まわりにひとがいると、はやくどかなきゃって頭の片隅であせっちゃって、絵ならまだいいんですけど、映像って一ロール見ないと意味ないのが多いから。家で見るか、映画館みたいにするか、入場制限するとか。。とにかくゆっくり見れる環境がないと、観た気がしないんですよね。)
まあそれはいいとして、薄暗い一人部屋よりちょっとひろいぐらいのスペースにビデオと一対一。の条件で観るとふわーって空飛べる。飛んできました。よかったです。
(坂本)

金曜日, 3月 30, 2007

ねじればな

草の上歩くと落ち着く。やっぱりアスファルトはかたいし灰色すぎますね。最近はもうだいぶ青青としてきて、雑草もいっぱいです。
うちの近所でレアキャラなのがねじりばな。正式名称はわかんないけど、ねじれてるからねじればな?って呼んでます。なんだかきれいな芝生にしか生えないらしく、たとえ咲いててもほそぼそと二、三本くらいしか咲いてない。はやく会いたい。(坂本)

木曜日, 3月 29, 2007

ドイツ留学に向けて

留学って大変、準備のためにやることが想像以上にたくさんあり、その中にはたくさんの初めて体験がある。

最近の初めて体験

初めてクレジットカード。
初めてスーツケース

(熊谷)

振袖

友人が振袖を着て現れた。
馬子にも衣装なんて言うけれど、本当に綺麗。(彼女が馬子というわけではないです・・・)
眺めていて感じるのは、その身だしなみというか、たちふるまいと言うか。例えば、猫背には到底なれえないかたい帯や、腕の動きを限定する長い袖や、押さえてあげないと階段も上れない裾やなんやらが、ある種とても機能的なんだな。例えば西洋のコルセットってのは体形を制限するためのものだけど、着物の場合はもうちょっと見栄えと言うよりは、動きや振る舞いに制限を与えるもんなのかもな、と思う。仕草でものをいうような、そんな伝統が日本にはあったんだな。
ふとマシューバーニーの拘束のドローイングなんかを思い出すけど、そういえばあれも急に茶道に接近してたね。映画を見る限りでは、西洋とのそういった感覚のずれは感じるけれど。
(村山)

水曜日, 3月 28, 2007

日本国憲法

親しい人がドイツへ留学のために旅立ってしまうので、最後にどこへお連れしたら良いもんかと考えた挙句、映画を見に行った。「映画 日本国憲法」。この映画は2年前頃に公開された映画なんだけど、未だに様々な場所で細々と上映を続けている。僕らが今回いってきたのは、世田谷区民会館の集会所。小さいスクリーンを前に、若者と呼べそうな人達は見当らない客層にまぎれて、映画とその後の監督のトークイベントを楽しんできた。
映画は、様々な知識人に対して日本国憲法についてをインタビューしまとめたドキュメンタリー映画なんだけど、まず監督が外国人(米)。そんでインタビューをした人達もほとんど外国人、もしくは外国に住む日本人。要するに海外から見た日本と日本国憲法に焦点が当てられている。まぁそれだけ客観的な意見が集められているわけだから、激しく断罪を求めるような意見もあれば、なんともロマンチックな意見とかもありつつ、要するにとても当事者からは出せないような意見が飛び交い、なんとも歯がゆさみたいなものを感じる。
んま、その歯がゆさ自体が監督の狙いなんだろうな。見て損はしないので、気になる人は是非見たら良い。断続的にいろんなところでやってますよ。
感じるのは別に政治のことだけではなく、地域だったり、歴史だったり、思想だったり、現状だったり、ってのは全部当然のように美術とリンクしちゃう。結局なにやっても人がやってることだからなぁ。まぁその中で僕はどうしようもなく現在日本人なんだけど。

でも結局ね。旅立つ人を見送るときの最後の最後は、いつだってただ「元気なら良いや」ってことだけなんだね。
いってらっしゃい、元気でね。
(村山)

海外

先週、韓国・ソウルに行ってきた。2泊3日の短期滞在だったけど、ソウルで知り合いのギャラリーを見たり、去年スタンプで個展をした桑久保さんの個展をみたり、思いがけず新しい友達ができたり、と楽しい旅行だった。

さて、来週日曜、四月一日からはドイツ、ベルリン。去年ワールドカップ前に行った時とは違い今度は長期滞在。どんな体験ができるか期待大!&不安大!とりあえず荷物の準備がんばろ〜

(熊谷)

火曜日, 3月 27, 2007

土台のサーフェイス




近くで住宅の基礎工事をやっていて、思わず見とれてしまった。

 専門家ではないので上に建つ家の間取りとかまでは想像できないが、ずっと見ていた。
 
 家が建っちまえば見えなくなる部分、家を基準に考えると内部基礎だね。でも俺がみたのは基礎の表面。上棟式前。
縁の下の力持ちは見えないんだ。
 
『土台のサーフェイス』 んー意味合いとしても不思議。
                             (内山)

月曜日, 3月 26, 2007

「みんな」「すきとおったほんとうのたべもの」

 もうかれこれ10年くらい前からのことなのだが、宮沢賢治の「みんな」という言葉と「すきとおったほんとうのたべもの」という言葉が頭の片すみにずっと住みついていて、精神的なバランスを崩したりするとこの言葉が頭に浮かび上がり、自分の気持ちを整理してくれて、広い視野に向かうことをすすめてくれる。
「みんな」という言葉は、春と修羅の序に書かれていて、「すきとおったほんとうのたべもの」という言葉は、注文の多い料理店の序に書かれている。
(以下参照)


*春と修羅 序(部分)

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

*注文の多い料理店 序

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃《もも》いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗《らしゃ》や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹《にじ》や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾《いく》きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。


春と修羅に書かれている「風景やみんなといっしょ」の「みんな」っていったい何を指して「みんな」と言っているのだろうか?
ずいぶんと長くこの「みんな」という言葉が何を指し、何を意味しているのか考えてきた。
あたりまえだが明確な答えなんかでるわけないが、注文の多い料理店にでてくる「すきとおったほんとうのたべもの」という言葉から推察すると、賢治は「みんな」という言葉を実体性の帯びたもの、例えば親とか友人といったまわりにいる人たちや、人と自然という二項対立的な一方向的角度から見ようとする自然など、そういった実体性のあるものとして使おうとしているとは思えない。
では、「みんな」という言葉が実体性を指していないものならば、なおさら「みんな」という言葉が何を意味しているのかよくわからない。
でも最近、曖昧ではあるがなんとなくこんな事を意味しているのかもしれない、ということが少しずつ解ってきた。
それじゃ言葉をつかってちゃんと説明してみろ、と言われるとそんな簡単に出来るものではなくて、説明しようとすると抽象的な言葉しか思い浮かばない。
たぶん「みんな」という言葉は、すごくアホっぽく聞こえるかもしれないが「あるあるあるあるある」とか「キラキラキラキラキラ」なんだと思う。それは、何かがあるとか、何かがキラキラしているという実体的なものを指して言っている言葉ではない。ただあって、ただキラキラしているのである。
人はどうしても実体的なものを捉えようとすると、そこに付着する意味みたいなものにとらわれてしまい、自我を大きく膨らませてしまう。だからまわりの出来事と無関係に見ているものに対して思い込みをしてしまい、自分勝手な孤独感にさいなまれてしまったりする。
そうならないためには「何か」という実体性が抜けた、ただあって、ただキラキラしている状況をただ見ていればいいのである。
つまり、視線はひとつの実体的な対象を捉えようとするのではなく、ただぼんやりと何処にも焦点があうことなく視線は全てに向けられ、そこにあるものを素で(微笑ましく)見ているということなのである。
視線が全てに向けられているということは、視覚に頼っていないということと同義である。
つまり、実体的なものを追い求めず、また視覚に頼らず、そうなることで自我は薄れていき、まわりにあるものがおのずと存在の光を放ち、それを無条件で受け入れることができること。
それが全てと一緒にいる感覚であり、「みんなといっしょ」ということではないだろうか。
(イッセイ)

日曜日, 3月 25, 2007

最近、嬉しかったこと

それは28歳になって初めて鶴が折れるようになったこと、「なんだかんだ言ったてお前は鶴が折れないじゃないか!」というコンプレックスから解放されたのでした、十枚くらい折ってやっとおぼえられた‥(安永)

村山日記を追いかけて

3/23
13:00 東京都現代美術館「中村宏」「等身大の約束」
15:00 上野の森美術館「VOCA2007」「田中功起ショー、反省会その三」
18:30 SCAI THE BATHHOUSE「ブライアン・アルフレッド」
22:40 深夜バスで新宿から岡崎へ

3/24
4:30 岡崎着。村山モスバーガーで夜明けを迎える
10:00 六所神社で安産祈願。岡崎城。メカ家康様を見逃す
14:00 岡崎市美術博物館 「森としての絵画」
   見知らぬ方からチケット売り場で招待券を頂く
17:00 雨のため岡崎で缶詰。味噌カツ堪能
24:20 岡崎から横浜へ

3/25
今  Bankart1929へ行くつもりが雨と疲労で断念。家でぐったり

(新井)

金曜日, 3月 23, 2007

めがね

メガネを買いにいって視力検査をしたら「お客様の視力はこの機械では測定できませんでした」と言われてしまった。。。一番大きな文字も読める読めない以前にそこに字があるのかないのか分からなかったからしょうがないのかもしれないけどヘコむ。歯科とメガネ屋は行くたびに負けた気になるから嫌だ。出来上がったメガネは牛乳瓶の底より厚かったです。(高松)

月曜日, 3月 19, 2007

静香さん

今日、サザエさんに荒川静香選手がでてきた、サザエさんたちが荒川選手の事を静香さんと馴れ馴れしく名前で呼んでいるのが気になった。イナバウアーがエクソシストみたいに背骨が反り返っていてちょっと怖かった。(安永)

土曜日, 3月 17, 2007

最近みた諸々

VOCA2007展」を上野の森美術館へ見に行く。若い美術家さんたちの感覚が良い。知り合いも何人か出していて楽しんで見てきた。
ヴィジョン・オブ・コンテンポラリー・アートと名付けながらも平面作品に限るのには、賛否両論あるだろうけど、やっぱり日本人は絵が好きなんだな、と思う。僕も好きだ。会場で出品者の田口和奈さんを見かけ談笑。
隣でやっていた「田中功起ショー」も面白かった。ここのとこよく見かけることの多い作家さんで、他でもいろいろ言ってるから省くけど見てて飽きない。説明づけられないような、共通身体感覚が武器なだけに、見る人を選ばない単純で小さな快感が続いてく。
僕が言った時はいなくて残念だったのだけど、今回の展示は反省会と銘打って何日かに渉ってイベントがある。行く方は是非その日程に合わせて行かれると良いと思う。
その後、六本木へ行って新しくできた新美術館へ、「20世紀美術探検」展を見に行く。一言で言えば、見づらい。説明ないまま強引な作品選定と配置に思えた。壮観な20世紀美術が展望できると思って来た人は混乱しちゃうんじゃないか、と余計な心配をしてしまう。
その後、新宿へ行って、本屋などをプラプラする。いやぁ、やっぱり都会の本屋は品揃えが豊富だ。雑誌などのバックナンバーが通して見れるのは助かる。
その後、新宿からバスに乗って愛知県の岡崎市へ。「森としての絵画」展を見に行く。
深夜バスなので朝着く。寒い。到着するとまだ5時なので、仕方なくモスバーガーで暖をとった後、岡崎城へ。小さい城だけど、やっぱり城は頼もしい。建造物ってのは誇りなんだなぁ、としみじみ思いながら徳川家康が生まれた城の周りをウロウロしていると、場内にある看板によって近くにカラクリ時計があることを知り見に行く。
朝9時ジャスト。城内の広場中央にある大きな柱の上部の時計がパカっと開き、なんと中からミニ家康様が扇を持って現れる。時計内部から発せられる「イヨォーゥ、イヨォーゥ、ッポン」という能のリズムに合わせて、家康様が体をくねらす。次第にリズムが盛り上がってきたところで、突如として家康様のお胸がパカリと開き、中から能のお面が飛び出した。シャキーンッて具合に能面は家康様のお顔に張り付いて、家康様グレードアップ。ますます盛り上がるリズム。メカ家康様かっこいい。
早く着いて良かった。
その後美術館へ向かおうと、道を聞くと何人かの人が「あっちだ」って言ったり「こっちだ」って言ったり。バスの運転手に聞いてもそんなだから「変だな」と思ったら、どうやら岡崎市には岡崎市美術館ってのと、岡崎市美術博物館ってのがあるらしい。わかりにくい。行こうと思ってる人は間違えないように気をつけて下さい。
無事に岡崎市美術博物館に着いて見た「森としての絵画」展はとても面白かった。出品している作家や作品のバランスが良く、新世代作家の作品が新鮮だったのに対して、旧世代作家の作品も同じようにとても新鮮だったのは、展覧会名が示す通り、木一本一本というよりは、相対した「森としての」見え方のようだった。
とりあえず僕的には昨年末に大阪へ見に行った絵画展よりも楽しんで見てきた。オススメします。
僕は久しぶりに良いもん見たな、っていう満足感でもって、そのまま名古屋城へ行き、ミソカツ食べて来ました。満腹です。強いて言えば、密かに楽しみにしていた「名古屋の方はミャーミャー言う」という噂の真相は確認できませんでしたが、それはまた次回。
(村山)

金曜日, 3月 16, 2007

初雪

が東京で降ったみたいですね、鎌倉では降ったのかな?最近また寒いなぁ。(安永)

水曜日, 3月 14, 2007

鈴木先生

いつものように本屋に寄ってプラプラする。欲しい本を探してるわけではなく、なんの気なしにぷらついて目についた本をパラパラめくるだけ。ただ今日は違った。なんと『鈴木先生』の第二巻を発見。即買う。
一巻もすごかったが二巻はもっとすごい。かなり、と言うか、全くよくわからん。とにかく伝わるのは物凄い熱量で何かに突進していること。ただその何かが何なのかは全然わからん。とにかくすごい気がすることは確か。という意味ですごい。
簡単に紹介すると、中学生の担任をもつ鈴木先生が生徒とのやりとりを通して悩み、成長していくというお話のコミック。特別、不良がいるわけでもなく、性同一障害の子がいるわけでもない教室で起こるのは、給食メニューの酢豚の人気がないので、廃止するかどうかを職員会議にかけるか?とか、そんな問題。しかし鈴木先生は悩む。いつだって先生は本気だ。やっぱ本気が一番おもしろい。本気じゃなきゃつまんない。
(村山)

月曜日, 3月 12, 2007

間違いなく大不正解

  最近、アルバイトにいくのに自動車を使う。
家からstumpまで一時間ほどそしてstumpに車を置いてバスで12分程。
鎌倉は昼間と夜とでは自動車の量が全然違う。
 要塞都市、主要道路以外はとにかく狭い。

 stump着いて時間ぴったりだなぁ、時間の感覚に慣れてきたななんて思ったら。
ちょうどいい時間のバスが無い。次のバスでいくと、、、。

 『やべぇ、このままじゃ遅刻だ』ということで、
 stumpから仕事場までマラソン。
持久走は得意だったが、それも昔の話。
観光客の間を『はぁ、はぁ』いいながら走り抜ける。

 中間地点で余裕ができたの歩きながらタバコをぷかりぷかり。
はいこれ、間違いなく大不正解ね!  ←不思議な言葉。

 再び、走り始めると、皆さんお解りかと思いますが、
回るのね、全身に。
 やにくらくらくらくらくらくら〜
でもね時間は迫ってるから、走らなきゃ、走らなきゃ。
 
 なんとか間に合ったし。すわってから汗がドバドバ出たよ。
たまには運動しなきゃあね。     

               (内山)




 

 

 
 

 

土曜日, 3月 10, 2007

39パーティーおわりました

皆さん、寒い中ありがとうございました

お楽しみレク大当たり!

栗原一成ライブペインティング

あー、楽しかった。鍋でかかった。
(新井)

金曜日, 3月 09, 2007

39パーティー速報

stump名物 ドデカナベです。
いつも手伝ってくれている河野さんです。ありがとう。

昨日はどうも

今日はたらたらと綴ってみる。
読みにくいとこもあると思うので読み飛ばしてもらって結構。

だいたい僕は一回東京に出ると、あらかたの用事を一日で済ませたいと思って奔走する。
昨日は午前中に仕事だったので、お昼から出発。まずは多摩川にあるアートリバーバンクの早川陽子さんの展示へ。なんとなく知りつつも実際に展示を観るのは初めて。展示内容はドローイングによるインスタレーションだ。丸いレンズのようなガラスの上に描かれたドローイングは、虫ピンで支えるようにして白い壁に打ち付けられている。ドローイングが落とす影は壁自体に描かれたドローイングの上で揺らめいていて気持ちいい。まるでギャラリーの前を流れる多摩川のキラキラがそのまま室内に入ってきたよう。手短に言うと、透過と円形を使うことで作品自体の構造が崩れる感じ、それはやっぱり多摩川と環境と光の関係に似ていると思う。個人的には大壁の右から二番目、蝶々の小さいのが「欲しい!」と思ったんですが、やっぱそういうのに限ってもう売れちゃってるんだな。残念。
そんでそれから用あって神保町の古本屋街へ。用事ってのは39パーティー用のプレゼント探し。買うものは決まってたんだけど、なかなか見つからない。10軒目くらいでやっと発見。ほっと胸をなでおろす。余談だけど、古本屋って好き。あれって本当にめぐり合い。どんな本でも出会うかどうかは運次第。でも出会うときは時間も場所も越えて出会えるから。あれはロマンチックだなぁ、と思う。
そんなわけで素敵なプレゼントを抱え、次は四谷に行って友人の展示を見て、その足で学校へ行って書類を提出。んで西荻窪に行って、これまた友人の展示を見にいく。アートスペース遊工房というところでやってる小林史子の展示です。駅着いて気づいたけど、バスだ。「バス乗るのかぁ」という思いを「あ うちもだった」と抑え込み、乗ると10分くらいで着く。入ると何故か外人ばっか。なんかやたらと大きい方たちに囲まれて、弱弱しく小林さんが立っている。なんかちょっとびっくりしたけど、そういえば小林さんはちょっと前までドイツに留学してたことを思い出す。おぉkokusaikouryu-。良いですね。
彼女の作品は写真とインスタレーション。元々あった住居用建築が解体されていく過程で出た元住居今廃材をもう一度、今住居に立て直す試みを写真で記録している。スペースの真ん中には彼女が立て直した建築が廃材をちらつかせて建っている。なんかかわいいミニハウスだけど明らかに住居用ではない。にもかかわらず、住居だったはずのその物体たちは住居的な思い出や、使用感やなごりを残しつつもある異様な佇まいを見せていた。この人のことは昔から観てるけど、異素材質感に対する感覚が鋭い。組み立てってのが彼女の制作の基本になってる気がする。彼女は時々そんな感覚で自分の体も作品に組み込んだりする。なんていうかパフォーマンスというよりはもう少し儀式的なその動きは、システマチックに組み立てられる分、その隙間から垣間見れる小林さんらしいどろつきがいい。久しぶりに見たいです。よろしく。あまりゆっくり話せなかったけど、また今度。
そんで今度は東京に行って春のstumpでの展示についての打ち合わせ。まだはっきりしていないから、言わないでおくけど。僕が好きなアーティストを二人呼んでなんかやろうとしている。とにかくめちゃくちゃでもいいから異世界に連れ込めたら良い。3人で散々盛り上がってテーマと方向性が定まる。話すとまた長くなるので、また詳細は後ほど報告しますね。
あぁ今日は39。楽しみ。今頃は準備が着々と進んでいることでしょう。僕もこれから合流します。ブログ書いてる場合じゃない。すみません。今行きます。
(村山)

木曜日, 3月 08, 2007

一句

風邪ひいて〜
頭と喉が
めちゃいたいー
(安永)

土曜日, 3月 03, 2007

歩くことと描くこと

最近、散歩をしながら気付いたことがある。
それは、歩くことと描くことって似たようなところがあるんじゃないかって。
つまり思考の働き方、いや違うかな世界の感じ方かな。
散歩をしていると、
「お、トンビが風にうまい具合にのってる」
「魚屋にあるシラスがおいしそう」
「いつものように浄明寺のバス停は人がいっぱい降りてるな~」
「やっぱりこの家には誰も住んでないな」
「前から来る犬は毛並みが汚いけど目がかわいい」
「この板塀は相変わらず変な傷がいっぱいついてる」
「今日もこの神社の梅はきれいだな~」
「それにしても鎌倉は古道具屋が多い」
「お、砂煙がやってきた」
「今日はこっちの道を歩いてみよ」
「どこからカレーの匂いが」
「と思ったら路上で店を出しているおっちゃんが外でカレーうどん食べてる」
「今の風ひんやりしてて気持ちいい」
「火事にあった薬屋のおじさん大丈夫かな」
「風に葉っぱがユラユラ揺れてる」
という具合に思考が次々に巡る。
気持ちがいい。
何故かこの思考の働き方は、あとをひかないのである。
「あれがあるね。これがあるね。またあれがあるね」
って感じでトントンと軽快な運動性がある。
そして、体に力をいれなくても勝手に足が無理なく前にすすんでいってくれる。
だから今現在した自分の行動にいちいち悩んで前に進むことが出来ないということはない。
そこにある空間は常に広がっていく性質をはらんでいるのである。

よく絵が縮こまって見えるとか、やせて見えるというように否定的な見え方があるが、それは描くという行為が散歩のような軽快な運動性を失っている時に起きる気がする。
描く行為がつっかえつっかえで鈍い時は、何か一つの事にとらわれ過ぎていたりして、一応そのとらわれている事に夢中になっているから、動きが鈍いながらも時間もたっぷり使ってすごく描いた気にはなってはいるが、いざ画面から離れて自分の絵を冷静に見てみると伸びやかさがない縮こまった絵になってしまっていることがよくある。
何か一つの事にとらわれ過ぎている時は、だいたいにおいて自分の行為に見返りを期待している。見返りを期待しているから一つの場に留まってしまい動きが鈍くなるのである。
そこには自分自身を前に前にと突き動かしてくれる空間の広がりはない。

あたり前だが心地よい散歩をしている時に何か見返りを期待するということはない。
だから散歩をしている時の思考は、無理のない軽快な運動をして、自身を広がりのある空間へと導いてくれるである。
もし、縮こまることなく広がりのある絵画空間を意識するなら、個人のイメージや意味性に固執するより、運動性について考えていったほうが、少しでもその意識を感じること出来ると思うのである。
(イッセイ)

サンキューパーティー☆

皆様に日頃の感謝を込めて、3月9日の金曜日にパーティーを開催します。
ライブペインティング、お楽しみレクありの「サンキューパーティー」。
ご都合のよろしい方はぜひぜひご参加くださいませ。

サンキューパーティー 
3月9日(金) 17:00 - 21:00
参加費無料
※栗原一成ライブペインティング 17:00より 

詳しくはこちらをご覧下さい

(stump)

金曜日, 3月 02, 2007

一句

はらへって

食べる晩飯

めちゃうまい

(熊谷)

物忘れ

最近物忘れが激しい。なんだかいろいろ忘れてしまう。
細かいことたくさん忘れる。
火にかけたやかんを忘れてしまう。
お風呂に入ろうと沸かしたのに忘れてしまう。
早起きして弁当作ったのに忘れてしまう。
毎晩仕事帰りに今朝、自転車をどこに停めたか忘れてしまう。
いま自分が何のために立ち上がったんだか忘れてしまう。
何故いま自分が冷蔵庫を開けているのか忘れてしまう。

友人に「春だからかねぇ」なんて話してると「お前、昔からだぞ」と真顔で言われ、少しビクつく。そんなこんなもろもろ忘れてしまう。
(村山)