歩くことと描くこと
最近、散歩をしながら気付いたことがある。
それは、歩くことと描くことって似たようなところがあるんじゃないかって。
つまり思考の働き方、いや違うかな世界の感じ方かな。
散歩をしていると、
「お、トンビが風にうまい具合にのってる」
「魚屋にあるシラスがおいしそう」
「いつものように浄明寺のバス停は人がいっぱい降りてるな~」
「やっぱりこの家には誰も住んでないな」
「前から来る犬は毛並みが汚いけど目がかわいい」
「この板塀は相変わらず変な傷がいっぱいついてる」
「今日もこの神社の梅はきれいだな~」
「それにしても鎌倉は古道具屋が多い」
「お、砂煙がやってきた」
「今日はこっちの道を歩いてみよ」
「どこからカレーの匂いが」
「と思ったら路上で店を出しているおっちゃんが外でカレーうどん食べてる」
「今の風ひんやりしてて気持ちいい」
「火事にあった薬屋のおじさん大丈夫かな」
「風に葉っぱがユラユラ揺れてる」
という具合に思考が次々に巡る。
気持ちがいい。
何故かこの思考の働き方は、あとをひかないのである。
「あれがあるね。これがあるね。またあれがあるね」
って感じでトントンと軽快な運動性がある。
そして、体に力をいれなくても勝手に足が無理なく前にすすんでいってくれる。
だから今現在した自分の行動にいちいち悩んで前に進むことが出来ないということはない。
そこにある空間は常に広がっていく性質をはらんでいるのである。
よく絵が縮こまって見えるとか、やせて見えるというように否定的な見え方があるが、それは描くという行為が散歩のような軽快な運動性を失っている時に起きる気がする。
描く行為がつっかえつっかえで鈍い時は、何か一つの事にとらわれ過ぎていたりして、一応そのとらわれている事に夢中になっているから、動きが鈍いながらも時間もたっぷり使ってすごく描いた気にはなってはいるが、いざ画面から離れて自分の絵を冷静に見てみると伸びやかさがない縮こまった絵になってしまっていることがよくある。
何か一つの事にとらわれ過ぎている時は、だいたいにおいて自分の行為に見返りを期待している。見返りを期待しているから一つの場に留まってしまい動きが鈍くなるのである。
そこには自分自身を前に前にと突き動かしてくれる空間の広がりはない。
あたり前だが心地よい散歩をしている時に何か見返りを期待するということはない。
だから散歩をしている時の思考は、無理のない軽快な運動をして、自身を広がりのある空間へと導いてくれるである。
もし、縮こまることなく広がりのある絵画空間を意識するなら、個人のイメージや意味性に固執するより、運動性について考えていったほうが、少しでもその意識を感じること出来ると思うのである。
(イッセイ)
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