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Gallery Stump Kamakura は、複数の美術家たちで運営しているアートスペースです。2006 年5 月に神奈川県鎌倉市にある一軒家を改築し、設立しました。スタート以来、展覧会活動などを通じて、世代や分野の垣根を超え、ものと人、人と人との交流の場として機能しています。2008年現在では運営するメンバーの数は10名に広がり、更に多様な方向を思索し邁進中です。

月曜日, 3月 26, 2007

「みんな」「すきとおったほんとうのたべもの」

 もうかれこれ10年くらい前からのことなのだが、宮沢賢治の「みんな」という言葉と「すきとおったほんとうのたべもの」という言葉が頭の片すみにずっと住みついていて、精神的なバランスを崩したりするとこの言葉が頭に浮かび上がり、自分の気持ちを整理してくれて、広い視野に向かうことをすすめてくれる。
「みんな」という言葉は、春と修羅の序に書かれていて、「すきとおったほんとうのたべもの」という言葉は、注文の多い料理店の序に書かれている。
(以下参照)


*春と修羅 序(部分)

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

*注文の多い料理店 序

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃《もも》いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗《らしゃ》や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹《にじ》や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾《いく》きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。


春と修羅に書かれている「風景やみんなといっしょ」の「みんな」っていったい何を指して「みんな」と言っているのだろうか?
ずいぶんと長くこの「みんな」という言葉が何を指し、何を意味しているのか考えてきた。
あたりまえだが明確な答えなんかでるわけないが、注文の多い料理店にでてくる「すきとおったほんとうのたべもの」という言葉から推察すると、賢治は「みんな」という言葉を実体性の帯びたもの、例えば親とか友人といったまわりにいる人たちや、人と自然という二項対立的な一方向的角度から見ようとする自然など、そういった実体性のあるものとして使おうとしているとは思えない。
では、「みんな」という言葉が実体性を指していないものならば、なおさら「みんな」という言葉が何を意味しているのかよくわからない。
でも最近、曖昧ではあるがなんとなくこんな事を意味しているのかもしれない、ということが少しずつ解ってきた。
それじゃ言葉をつかってちゃんと説明してみろ、と言われるとそんな簡単に出来るものではなくて、説明しようとすると抽象的な言葉しか思い浮かばない。
たぶん「みんな」という言葉は、すごくアホっぽく聞こえるかもしれないが「あるあるあるあるある」とか「キラキラキラキラキラ」なんだと思う。それは、何かがあるとか、何かがキラキラしているという実体的なものを指して言っている言葉ではない。ただあって、ただキラキラしているのである。
人はどうしても実体的なものを捉えようとすると、そこに付着する意味みたいなものにとらわれてしまい、自我を大きく膨らませてしまう。だからまわりの出来事と無関係に見ているものに対して思い込みをしてしまい、自分勝手な孤独感にさいなまれてしまったりする。
そうならないためには「何か」という実体性が抜けた、ただあって、ただキラキラしている状況をただ見ていればいいのである。
つまり、視線はひとつの実体的な対象を捉えようとするのではなく、ただぼんやりと何処にも焦点があうことなく視線は全てに向けられ、そこにあるものを素で(微笑ましく)見ているということなのである。
視線が全てに向けられているということは、視覚に頼っていないということと同義である。
つまり、実体的なものを追い求めず、また視覚に頼らず、そうなることで自我は薄れていき、まわりにあるものがおのずと存在の光を放ち、それを無条件で受け入れることができること。
それが全てと一緒にいる感覚であり、「みんなといっしょ」ということではないだろうか。
(イッセイ)

1 Comments:

At 2:14 午前, Anonymous 匿名 said...

もう一回、ちゃんと読みました。
やっぱちょーっと分かんないとこあります。ので、また来週お願いします。

 

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