保坂和志「羽生」

昨日の夜、保坂和志の「羽生」を読み終えた。
「羽生」とは、将棋の名人羽生善治のことで、
その羽生善治の思考の核に迫っていくのが、この本のテーマである。
あまりにも面白かったので、二箇所抜粋して紹介したいとおもう。
一番最初が保坂和志の語りで、二番目が羽生善治自身が語っていることである。
どちらも意識の上での運動性について語っている。
「音楽は一番伝わりやすい例だけれども、絵画でも詩でも小説でも映画でも、すぐれた芸術作品というのは、すべて作者の意図を越えて、その作品固有の運動・法則を持っている。作者の仕事とは、いわば、自分が作りつづけているその箇所が、当面出来上がっているところまでの運動を損ねることがないか、目をこらすことだ(しかし、それのわかっていない作家が現実にはとても多い)。「人生は短し。されど芸術は長し」という言葉があるけれど、そういうことではなくて、芸術というものは、すべて作者個人の意図を越えて、作品固有の運動性を持つものなのだから、完成するはるか以前、作りはじめてかなり早い時点から、作品は作者の手から離れている。」
「きれいな手は駒が笑うんですよ。全部がきれいに働くわけですから、本当にニッコリ笑ってくれるような感じです」
保坂和志は、作者の意図を越えた作品固有の運動性の重要性を説いていて、その良い例が羽生善治の「きれい手は駒がニッコリ笑う」なのである。
まったく同感である。
昔から、ずっとこの作者の意図を越えた作品固有の運動性について考えてきた。
絵を描く制作過程で、絵も自分も自然と笑みがわいてくるような、そんな過程を踏んでいけるように日々の生活を生きなければいけないのである。
(イッセイ)
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