菊地容作「イキとコエの物語」について
ただいま開催している企画展「菊地容作 アンマンマリアン」の展示会場にて販売されている「イキとコエの物語」について、わたくし栗原が感じたことを文章としてまとめたものを紹介したいと思います。
少し長くなりますが読んでいただけるとありがたいです。
*菊地容作「イキとコエの物語」について
家の縁側に座って、庭に咲いている草花たちが風に揺られている姿をぼっ〜とながめていると、いつのまにか目を閉じている自分がそこにいたりする。
かえって目を閉じているほうが、庭に射す光の暖かみや、鳥の鳴き声、風のあつみを感じとりやすいし、遠くの山のなかを吹いている風が、いま自分の肌を撫でているという距離のあつみも感じさせてくれる。(全方位的感覚)
つまり、気持ちいい〜、静かにオレはいま世界とシンクロしてるよ、という感じである。
ん〜ありがたい!
でもなんで目を閉じてしまったんだろうか?
あ〜そうか、庭をながめているという単純な行為が、自動的に視覚に頼ることをやめさせてくれたんだ。
きっと、無意識にも世界と呼吸を合わせたいという思いから、みずからの行為(意識)に境界を区切ったのであって、それが目を閉じたということなのである。そうしなければ世界とシンクロできなかったのだろう。
みずからの行為(意識)に境界を区切る?
みずからの行為に境界を区切るということは、新たな自己を生み出すことと世界とシンクロするために、とても重要なことなのだ。
例えば、人は睡眠をとらないと死んでしまう生き物である。寝るという行為をすることで行為に境界を区切り、生きていく。それは、生きるという意味で新たな自己を生み出すことであり、世界とシンクロしていることでもある。
意識レヴェルの状態では、縁側に座って目を閉じるということで、行為(意識)に境界を区切ったからこそ、目を閉じる前とは違う自分に出会えたのであり、目を閉じなければ今までの自分がただそこにいただけだ。
もし意識レヴェルで、みずからの行為に境界を区切ることが日々行うことができれば、常に新たな自己が形成され、生きるうえでの手助けをしてくれるはずだ。
菊地容作の「イキとコエの物語」をはじめて読んだとき、この境界を区切って生まれる自己形成システムが頭に浮かんだ。
この物語の読み始め、なんかバラバラしていてつっかえつっかえで読みづらいという印象を抱いた。しかし、読み進めていくと、そのバラバラした言葉と言葉の間に世界の広がりを感じはじめたのである。
いっけんすらすらと読んでいかれる文は、物語の展開ばかりに偏っていて、意外と記憶に残らないものである。しかし、この物語は違っていた。
菊地は、言葉をつうじて自身の意識に境界を区切っていき、次々と新たな自己(世界)を生み出していっているのである。それは、子供がはじめて自転車に乗ることができたとき、ペダルをおもっいきりこぎながら、今まで見ていた世界とは違う世界が目の前でどんどん広がっていくような経験に近い。
私は、この「イキとコエの物語」が宮沢賢治にいう「すきとおったほんとうの食べ物」として読者の心に届くことをどんなに願うかわからない。
stump 栗原一成
(イッセイ)
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