「忘れる状態』
先日のアジア杯サッカー、三位決定戦。日本ー韓国をテレビでみた。
見ていて不思議な気分になって。いろいろ思い出した事を意味もなく書きたい。
スポーツは基本的に得点を競うものだ。戦争は相手の領土を支配するもの。
隠れてはいるが共通するのは相手の生活を侵害して、自分が精神的にも財産的にも優位になる事。
ホームランを打てば、打たれた選手が存在する。勝利チームの影に負けた人達がいる。
実際、野球などは戦争を意識した構造になっている。ホームに生還した兵士という設定なのだ。
昔、「グランドに金が埋まっている」と言ったプロ野球の監督がいたが、
気持ちいいくらい簡単でわかりやすい。しかし相手がいる以上それは金を取られた選手がいて通る理屈である。
でも土地に金が埋まってるという相手なしの表現。
「あの選手から金を奪え!あいつの生活をを侵害しろ!」とは言わないのだ。
オランダのナショナルサッカーチームはサッカーグランドを俯瞰画面として捉え、そこを描くパスの線が美しい事を勝敗以上に重要視する。ボールを止めないダイレクトの長短のパスはリズミカルで美しい。
面白いのは負けても美しければ「良し」なのだ。それでも強いのだが、ワールドカップは一度も制してない。
ナショナルチームレベルでの話である事が驚きである。
アマチュアの話ではあるが、日本では甲子園で負けた高校をクローズアップする。「負けは美しい」
特攻隊の青年が「お母さん」と叫んで突入していった事。
人生の儚さなどを敗戦の夏という事も相まって重ねてしまうのだろうか?
選手は負けても良いなんて絶対思ってないと思いますが、、、
監督に、試合に負けてグランドを罰走させられた事は何度もある。「罰走があるから勝とう」となってる事もあった気がする。
むちゃくちゃな話になってきて申し訳ないが、
何かを目的にする際、それと違った間接的な目標が必要となる。それが瞬間の出来事に集中するために必要なのだろうし、またチームワークが生む「責任」やスポーツの「根源」を一瞬でも擬似的に「忘れる状態」を作りだす事なのだろう。
戦争で言えば「大義」なのであろうか?
個人的な話だが制作をする際も、別に「よーし!いい作品をつくってやろう!」なんてあまり考えない。それよりも何か別の制約、ルール、仮説を自分で課して行う事が多い。もともと責任などないが、人間そう巧くもいかないのです。
すごーく話が反れてきまして、話を昨日のサッカーに戻します。
日本はオシム監督が標榜する「考えて走るサッカー」を表現していると思いました。
しかし、別に「考えて走るサッカー」を競ってはいないのです。
スポーツの持つ根源につなげられなかった。きっと忘れちゃったのね。結果、負けた事よりも得点をとることからすごーく遠かったなぁ。内容はすごーく良かったんだけどさぁ。勝ち負け抜きでさ。
あ、いけね。
(内山)
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